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歴史を辿る

おはようございます

新元号の「令和」には早くも違和感がなくなり(個人的感想です)、元号に令和(=018)を足すと西暦になるということでも覚えやすくて良いと思います(例:令和2年=018+2=西暦2020年)

また、出典は初の国書からで、『万葉集』の「梅花の歌三十二首」に添えられた「序」の「初春令月、気淑風和」からと説明されました しかし、多くの専門家が指摘するように、この「令月」の出典は万葉集から200年ほど遡った漢籍の『文選(もんぜん)』の「仲春令月、時和気清」という語句に行き着きます

万葉集の序章は漢文で書かれていて、万葉集の書かれた平安時代の文化人は、教養として『文選』を学んでいることから、「令和」の出典を「万葉集」のみとした政府の説明にはいささか疑問が残ります 過去の例からも、出展が複数に渡る例はいくらでもあるので、出典は前例を踏襲した漢籍の「文選」とともに、新たな取り組みとして国書の「万葉集」の一節も加味して選んだという説明が最善だったと思います

と、前置きが長くなりましたが、歴史を振り返ったらお城に着きました

こちらは井伊家が城主を務めていた、猫のゆるキャラとひこにゃん音頭が人気の「彦根城」です 別名「金亀城」ともいわれ、江戸時代の元和8年に完成しています

こちらは羽柴秀吉が築城した琵琶湖のほとりにある「長浜城」です 天正4年頃に完成し、羽柴から柴田、山内、内藤家へと城主が代わり、元和元年に廃城になりました 現在の天守閣は昭和58年に犬山城をモデルに復元したものです

こちらは「駿府城」跡です 別名は「府中城」や「静岡城」 現在は桜の名所になっています 室町時代に今川領となり、その後武田領になりましたが、天正10年に織田・徳川軍により滅亡 徳川家康が天正18年に新たな城を築城し、家康が江戸に移り住んだ後に中村氏が移り住みましたが、晩年の家康は再び駿府城に戻り隠居し、元和2年に没しました その後、寛永12年に出火したときは城主不在となっていたために天守が復元されませんでした また、230年後には江戸城の無血開城により徳川家が退居してきて明治に繋がっていったという歴史もあります

2019.04.10|ブログ

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